2012年8月13日

公文

長女に2歳半から公文をさせている.滅多にこの話を外でしない.「幼稚園受験ですか」とか「娘さんも東大を目指すんですか」とか誤解されるから.

そう,これらは全く誤解だ.

実際には,東大なんて考えてない.大学に行かなくてもよいとすら思う.では,なぜ公文か.

うちの(私の?)教育方針は「幸せを自分で見つけて,それに向かって具体的に動ける」人になってほしい,ということである.仕事をする女性になりましょう,という狭い意味ではない.結果的に専業主婦になるにしても,夫や子どもに依存しきっちゃうのと,出産後も何らかの意味で自分を保てるのとはかなり違う.どっちになるかは,親の教育も含めて,結婚時にはかなり決まってると思う.

2012年現在1億2500万位である日本の人口は,2050年頃には9000万人を割りこむと言う.少子高齢化の帰結なので国力の衰退が心配される.とはいえ,私は2050年には74歳.老後だからあまり関係ないかもしれない.読者の大半もそうだろう.しかし,長女は2050年で41歳.まだ人生真っ盛りなのだ.

今後40年で人口が3/4に減ってしまうような日本で一流大学卒であることは,娘にとってどれだけ有用だろうか.15年後に18歳になる長女は,その時点で日本がよい感じなら(日本近海にレアメタルが眠ってて,日本がリッチな資源国になるなんて話もある)日本の大学へ進学し,そうでなければ海外に活路を求めるのが自然かもしれない.「幸せを自分で見つけて」なので,親の情報とかを得つつも,周りや常識に縛られず将来を考えてほしい.

そういう人を育てるために必要な訓練が公文にある,と直感した.

国語と算数.

この2教科の重要さは改めて私が語る必要はないが,例だけ挙げれば,文章の正確な意味や行間を読み取る論理力はコミュニケーションや仕事力の糧となる.そして,複利やリスクのことを勘案して自分のお金を管理できるようになるためには,何といっても算数である.

公文で得られることは,国語と算数(と,英語をやってる人は英語)そのものよりも広い.子どもの中に,色々なことに役立つ2つの態度が作られるからである.

(1) 勉強とはそもそも一人でやる孤独なものだ.私は勉強のプロなので,自信を持ってそう言える.人と一緒に勉強なんて,私の中ではありえない.もちろん,励まし合うとやる気が高まるし,どうしてもわからないことは人に聞く方が速い.人との雑談からアイディアが生まれることもある.ただ,基礎力は独力でやってこそ身につく.クラス(集団)型の幼児教室は色々なのが世にあるが,自分はあまりピンと来なかった.

(2) 勉強は継続的なものだ.雨ニモマケズ風ニモマケズに続けて,積み立てる.その中で集中力や粘りも身につく.

この2つは,気持ち悪いくらいまっすぐな正論だが,この2つを備えれば,この乱世で将来の選択肢が大きく広がるだろう.

公文のカリキュラムは,この2つを尊重した上でよく工夫されている(ただし,教室選びは多分重要だ.長女の場合は,最初に行ってみた教室がたまたま当たりだった).計算プリントだけで応用力や創造力がつかないといった批判も聞くが,私はそうは思わない.応用力や創造力,コミュニケーション能力は他で磨く必要があるだろうが,基礎あってこそだ.

ちなみに,私は公文の回し者ではないですよ.

公文は週2回.近所にあるにもかかわらず,保育園からの送迎と付き添いで毎回1時間半を要する.そして,継続性ということで,それ以外の日も家で宿題をやる.やる場合は,一人でモクモクできる年齢ではないので結局つきっきりで30分以上かかる.送迎と合わせてかなりの時間的負担である.

また,うちは一切強制をしないが,毎日「公文やろうか?」と声はかけるわけで,あれ今日はやったっけ? まだだっけ? いつ声をかけるのがよいか? などと考える.親としては,気をもむこと,極論すればストレスが1つ増える.これまた負担である.これらの負担は,仕事の妨げであると言わざるを得ない(きっぱり!).

金もそれなりにかかる(1教科1ヶ月で6300円).英語をやらないのは,金と親の時間の意味で続けられる確信が持てないからである.途中で親の都合でやめるのなら,最初からやらない方がよい.

そんな親の陰謀を知らずに,娘は公文をまあ楽しそうにやっていて,1年になった.公文の中で具体的な成長を目にするのは親として楽しい.

公文は日本発である.海外では,こういう教育サービスを聞かない(あるのかな?).日本の良い点を見た気がした.繰り返しますが,私は回し者ではないですよ.